読売巨人軍投手コーチ 斎藤 雅樹 (さいとう まさき) さん 1965年2月東京都足立区生まれ。 高校からドラフト1位で巨人入りした後、入団2年目に初登板するなど芽が出るのは早かったにもかかわらず、 その後、紆余曲折。良い球を持っているのになかなか結果が出ないという時期が長く、「ノミの心臓」と称されたこともありました。 野手転向もささやかれた中、当時の藤田元司監督(故人)のアドバイスで、オーバースローからサイドスローにフォームを変え、才能が開花。 のちに、2年連続20勝を挙げるなど球界を代表する強心臓の投手に変身を遂げました。 いったい何がきっかけとなったのでしょうか。 野球選手の頃から斎藤さんのことは応援していました。現役引退されてコーチになられてからずいぶんたちます。選手時代と比べコーチになってから良い面や難しい面いろいろあると思いますがいかがですか? コーチになって5年目になります。選手時代は自分のことだけでよかったのですが、コーチになると人数が多いためすべて把握するのは難しいですが、全員に目を配らないとならないのが大変なところです。今年ぼくは二軍のコーチですが、一軍コーチのときは毎日ゲームに追われていますから、いかにいい精神状態で試合に送り出すかを考えてあげればよかった。でも二軍選手の多くはまだ年齢的にも若い。一番若い選手は19歳で、うちの長男と同じ歳の選手ですから。そういう若い選手と野球をやるのも、初めてです。野球だけでなく私生活の面も気にしないとならないです。 コーチとして選手のモラルを育てる役目もおありなんですね。ところで斎藤さんには、もうそんなに大きなお子さんがいらっしゃるんですね。 はい。長男が19歳大学1年、次男が17歳高校2年、そして末っ子の三男が幼稚園年少組4歳です。末っ子は孫みたいな感じでかわいいいですよ! 末っ子さんがまだかわいい時代で。年の離れた兄弟は家族のアイドル的存在ですよね。ところで二軍といえどプロ野球、しかもジャイアンツでプレーできるのは、ほんの一握りの選手です。二軍から上がれる選手に共通項はありますか。 いくら練習しても全員が上がれるわけではない。でも誰にでもチャンスはある。力の世界ですから、力のない人はレベルを上げるわけです。でも、一軍内のレベルに差はありませんが、二軍内のレベルはまちまちです。それこそ二軍のゲームに出られない選手から、もうすぐ一軍へ上がれる選手までいろいろ。コーチとしてその差を少しでも縮めてあげたいと思います。ぼくは25年間プロ野球選手として生きてきましたが、言い訳をする選手は大成しないものだと思います。ダメなものはダメで、「すみません」から始まる。何か注意されると、ああだこうだと言い訳をする選手で、いい選手はいませんでした。自分のダメな点をきちんと認めて受け入れられる素直な心をもっていること。それがいい選手の第一条件ですね。 それはどんな世界でも同じかもしれませんね。 斎藤さんは11試合連続完投勝利、3年連続開幕戦完封勝利など、球界史に残る偉業を達成されていらっしゃいます。一方で「ノミの心臓」と言われ、良い球を持っているのになかなか結果が出ないという時期も長かったと伺っています。そこから一転、球界を代表する強い気持ちを持ったピッチャーに変わったきっかけというのは何でしたか? プロに入って2年目19歳で一軍デビューを飾ったものの、気が弱いとか自信をもてと周りに言われ続けました。でも、自分自身で「気が弱いな」と思ったことは一度もなかった。結果がでないうちは、周りを納得させることはできません。自信を持てと言われても、いい結果を出さないと自信はつかないんです。小さな成功を積み重ねることで、僕は自信にしてきました。二軍に行っても3か月で9勝しましたし、いつも「自分はできる!」と思っていましたから。 |
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