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子供の習い事トップ > ブログ・コラム・特集 > シリーズ・この人に聞く!第189回 > 1

堂野博之さん

堂野 博之(どうの ひろゆき)

1970年8月、尼崎市生まれ。小4で岡山県に転居。1986年4月岡山県立烏城高等学校入学、90年3月同行卒業。同年4月岡山県立岡山養護学校に校務技術員として就職。94年4月より岡山県立西大寺高等学校に校務技術員として勤務。その後、2校を経て2018年に独立。一般社団法人飛島学園代表理事、一般社団法人かさおか教育dmo代表理事、著書に詩画集「あかね色の空を見たよ」など。岡山県内に妻と娘たちを残し、大飛島に単身赴任中。»  フリースクール「育海」 公式サイトはこちら

登校拒否を5年間経て、15歳で家を出る。

堂野さんは小学4年生から5年間部屋に引きこもったということですが、まだ幼い頃に何がきっかけで不登校になったのでしょうか?

小学4年生の時、父の仕事の都合と家庭の事情で、滋賀県から母の実家がある岡山県美咲町へ引っ越しをして、千人以上の学校規模から、1学年10数名の小規模校へ転校しました。不登校は40年前当時、登校拒否という呼び名でした。きっかけは転校、いじめ、性格的な要素などいろいろあったと思います。それは心のコップの水がいっぱいで、溢れてしまった最後の一滴が何だったか?というのと同じで、特に何があったからというのではなく、いつか必ずそうなっていただろうと感じています。僕は繊細過ぎて学校生活でストレスを感じてしまう子でした。失敗を避けたくて、いい評価を大人からもらわないと気が済まない完璧主義。自分ではなく誰かが怒られていても居たたまれなくなってしまったり。生活上でストレスを感じやすい敏感さがあって、積もり積もって小4のある時、爆発して壊れてしまったんです。

ひきこもっていた5年間はどんな生活を?ご家族とは会話をされていましたか?

3つ上の兄と4つ下の弟がいて、僕は男3兄弟の真ん中でした。僕が学校へ行けなくなってから家庭が壊れてしまい、毎日喧嘩。家族全員がどん底に落ちてイライラしてふつうの交流がなくなってしまった。当時は学校へ絶対に行かなくてはいけないという風潮で、学校の先生には力づくで学校へ連れて行かれたり、両親も学校へ行かせるのが親の務めだと思っていました。学校!学校!学校!で、休んでいいよという考えは1ミリもなかったですね。

それは苦しかったですよね。何がきっかけで再び学校へ行こうという気持ちに?

最初の3年間は学校へ行かせるために両親も、学校と向き合ってきました。僕は猛反発してものすごい対立感情が生まれ、心を開かなくなってしまった。大人は敵だ!と。ただ5年目になって、親は『できることはやり尽くしたけれど、家族がこんなおかしな状況でいいんだろうか?』と。学校に行かなくても家族の一員として認めて、できることをやってもらったほうがいいんじゃないかと、親も変わり始めた。家の手伝いを段々始めてから、僕自身も落ち着いてきました。中学3年といえばもう義務教育終了で、進学先の高校をどうするか?となった。

高校進学が変化のきっかけとなったのですね。どうされたんですか?

担任の先生は、今の堂野君だと全日制高校は厳しいかもしれない。高校は他に、定時制と通信制というのもある…と教えてくれて。僕は定時制に何か光を感じたんです。そこは家を出ないと通えない学校でした。長い間、心を閉ざしていたのと反抗期も重なって両親の前で正直に振舞えなくなっていて、だったらそこを飛び出してゼロから自分の力でやってみたいという気持ちが強くなった。ただ、その気持ちもずっと伝えられなくて…。

15歳で家を出る決意は自立が早かったですね。すんなりと運びましたか?

自分の気持ちを伝えられずに、とうとう中学の卒業式を迎えて。式も行かなかったのですが、夕方仕事場から帰宅した母は満面の笑みで、今まで5年間見たことのないようなスッキリした顔でした。闘い続けた義務教育がこれで終わったと、肩の荷がおりたんでしょうね。母が僕に向かって「ひろちゃん、あんたようがんばったね。辛かったろう。でも、おかあさんも頑張った。おかあさんも辛かったんじゃ」と言われて。それまでバリアを張って拒絶してた親の言葉が妙に胸に刺さって、何年かぶりでまともに会話したような、あったかい気持ちになった。

それでその夜、両親にやっと進路について話したら驚かれて「え!そんなこと考えていたの?」と。大応援します、と受け止めてくれました。それが転機になりました。

多感な時期に5年間一人でいろいろ考えて、成長されたわけですね。

当時は今のようにインターネットもなく、スマホもなく、何もすることがなく、外を出歩くこともテレビを観ることすら憚られて、学校に行ってないのに何をしているんだ!と。そういう感覚でしたから本当に居場所がなかった。布団の上でただ時が過ぎるのを待っているような。僕なんかどうなってもいいや、と自殺願望もあった。それを何とか両親も耐え忍んで乗り越えてくれて、「信じて待つ」と言葉としては一人歩きしますけれど、そこへ至るまでの5年間は闘いの日々でした。両親に感謝しています。

「あかね色の空を見たよ 5年間の不登校から立ち上がって」(高文研)98年1月に刊行された詩画集。インタビューでは紹介しきれないエピソードも

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