石井 志昂(いしい しこう) 1982年、東京都生まれ。中学2年生から不登校となりフリースクールに通う。19歳から日本で唯一の不登校専門紙である『不登校新聞』のスタッフとなり、2006年から編集長。20年からは代表理事も務める。これまで不登校の子どもや若者、識者ら400人以上に取材をしている。「あさイチ」「逆転人生」(NHK)「スッキリ」(日本テレビ)「報道特集」(TBS)などメディア出演も多数。不登校新聞社が編者として関わった書籍に『学校へ行きたくない君へ』『続 学校へ行きたくない君へ』などがある。近著『「学校に行きたくない」と子どもが言ったとき親ができること』(ポプラ新書)は2021年8月刊行。» 石井 志昂 『不登校新聞』はこちら 石井さんは町田市出身で、過ごした時代は違えども私も同郷なのでお会いするの楽しみにしてまいりました。ご著書『「学校に行きたくない」と子どもが言ったとき親ができること』は、親が気づくべきポイントがとても具体的に書かれています。不登校児童をテーマにした本がたくさんある中で、どんな点にこだわりを持って執筆されましたか? 本書に理屈で考えた机上の空論は入れていません。カウントするのが難しいのですが20年で400人以上に取材を重ねてきました。不登校の子どもや母親に話を聞いて、揉みくちゃとなって涙し、時に血を流し。そうして獲得した皆の実践をもとに書きました。私は著者ですが、苦労した皆の媒介者として伝えています。作家の宮部みゆきさんが「これは不登校児のための、極めて具体的な処方箋だ」と推薦コメントを寄せてくださいました。理屈を優先していないのがこの本のポイントです。 19歳から20年以上も不登校新聞で取材をしてこられた石井さんご自身は、中2の時に不登校経験があったとのこと。転機はどんなことでしたか? 私が不登校となった原因は複数ありますが、今考えると中学受験を失敗したことが一番大きな出来事でした。特に点数がよいわけでなく普通の成績でしたが、入塾してテスト勉強をするうちに成績が伸びた。そして三者面談で「東大に行く準備をしてください」と言われたんです。後から思えば塾の生徒全員に言っていたんですけれどね(笑)。 進学塾としては受験というレールに乗っけたかったのですね。 そうです。そこからもう有名大学しかないと小学4年生から親子で目指した。当時通っていたのは超スパルタ塾。鉢巻して12時間以上勉強する合宿や、毎週成績順に名前を掲示する。その上、体罰も酷かった。30年ほど前は、学校の体罰はなくても塾は関係なかった。いつも成績がビリの子が教室に入って来た途端に「立ってろ!」と先生がなじる。いわゆる見せしめもあった。そういうことがいくつも重なって恐怖心となり、結局私は受験に失敗しました。 今では考えられない暴力が進学塾でまかり通っていたなんて。公立中ではハッピーでした? いや、受験に失敗したら自分の価値なんて何にもないと思っていたし、公立中で今度は理不尽な校則に苦しめられました。靴下は白、髪留めのゴムは黒か茶など、くだらなくて許せなかった。「受験に失敗したからこんな目に遭っている」という自分に対する許せなさがあった。理不尽さより、自分を責める材料にしていた。虐めもあり、いろいろなことが重なって全部嫌になった中2の冬、爆発しました。自分の中では受験で失敗して人生終わったと思ったけれど、不登校になってさらにレールから思いきり外れたと感じて…。 そんなはずないのに。見えないレールから解放されたのは何がきっかけでしたか? 転機になったのは、たまたま本屋で見つけたフリースクール。こういう人が世の中にいて集まっている!と知って数か月後そこに通っていました。転学をしてフリースクールに入ったら、すごく自由な環境。校則もなく、いろんな学年の子が集まっている。好きな授業だけ出て、ルールも自分で決める。そこで私は自分の意思を尊重され、受験とか虐めとか校則から解放され、初めて心の傷が癒されてやりたいことが見つかった。母はフリースクールを見学した日はショックで「あそこに行きたいの?」と聞かれ「行きたい」と答えると「わかった」と答えてから部屋の扉を閉めて、思いきり自分のバッグを投げつけていた(笑)。数年前まで東大目指していたのに、嫌だけど息子を尊重しなくてはという気持ちが表れていました。 |
|