枕詞のように常に『原監督の甥っ子』…と言われてきたと思いますが、原監督の存在をどう意識されていましたか? 僕は特に意識していないのですが。ましてや小学生の時は、どれだけすごい人かということがわからなかった。単にプロ野球選手の一人というふうに捉えていました。でも周りの人が原監督の功績について語られるので「ああ、すごい人だったんだな」という認識を少しずつ持ちました。 高校と大学は原監督出身の名門校で活躍されました。その時代によかったなぁ…とか、逆に嫌だったなぁ…ということは、どんなことでしたか? これは僕のモチベーションでもありますが、初めの頃は、新聞に取り上げられる時も必ず「原監督の甥、菅野がいいピッチングをした…」という書かれ方をしましたから、そういう言葉をなくして、いつか一人の選手としてメディアに取り上げられるようになりたいという思いがありました。大学3年生頃から一人の選手として書かれるようになって、今はジャイアンツの一員として動けるようになりました。 大学卒業時の2011年ドラフト会議では指名されたもののお断りました。そういう意思の強さは、やはり小さな頃から培われたのですか? ワガママでしたからね。自分の人生ですから妥協したくないですし、納得した形で何事も取り組みたい。しょうがないからやっている…では大抵の物事はうまく進まないものだと思います。納得した上でこの世界に入りたかったですし、こんなふうに言うとよく思わない人もいるかもしれませんけれど、僕の人生ですから。 すごくお若いのに、そうやって自分の意思を貫けることって難しいと思いますが、それができるのはやっぱり積み重ねてきた自信がおありだから…ですか? そんなことはないです。やっぱり1年見送って浪人することで、その先どうなるかわからない不安はありました。ジャイアンツがその次の年指名してくれる保証もありませんでしたから。でも、僕が選択した以上しっかり頑張らないと…という気持ちです。 ⇒ [3]を読む |
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