|
|
|
■哲也さんは大学卒業後、どんな仕事を? 就職活動の前に卒業したので、まぁ言ってみればニートの走りみたいな。 友達が学習塾の講師のバイトを受けにいくので一緒に付いていったら、僕のほうが
採用になってまずは講師バイトを。 でも、酒で体が痛んでいて途中で入院したので、結局長くは続きませんでした。
■バンド「叫ぶ詩人の会」を経てNYへ渡米され、その間色々心境も変化されたとか? 当時4人でバンドを組んでいて、そのうちの一人が97年に事件を起こしまして。全国ツアーやCMや色々決まっていたことが事件ですべてパーになり、一年間休業せざるを得なくなった。気づくと潮をひくように、ファンが離れていって復活は難しかった。99年に最終コンサートを終えて、それからニューヨークへ行きました。その頃も、なぜか人生相談だけは受けていたのですが、これは思ってもみない方向性で。僕の創作テーマは「ポエトリー&ファンタジー」。依頼される仕事は受けますが、相談事はその一つでしかない。にもかかわらず、気づくとそこばかりがPRされてしまっている。魚屋をやりたい店主がワカメも置いてみたら、ワカメの人気が出て魚が侵食されて、気づくと海草屋になっていた……といったような(笑)。で、少し離れてみようと思い、NYへ渡った次第です。
■NYではどんな生活を? 負債を抱えていたからコツコツ働いて返しながら暮らして、NYでもバンドを組みました。芸名のドリアン助川を捨てていたので、TETSUYAと英字の名前で。そうしたら今度は朝日新聞社から相談コーナーの回答をしてくれないかとオファーがきた。それがしたくなくてNYに逃げてきたのに(笑)。でもよく考えたら、NYまで追いかけてきてくれるのって、ありがたいことだなと思い直して受けた。2000年から始めて、今も続いていますからかれこれ8年になります。
■2001年の9.11テロの時は、どうされていたんですか? マンハッタンからブルックリンへ引越しする予定の日でした。本当は前日する予定が、大嵐のため交通がマヒして引越しセンターの車が来なかった。テレビや電話回線も切ってダンボールで一日横になっていましたから、どこにも連絡もつけようがなかった。テロだというのはわかりましたが、どこの誰が何でこうなっているのかわからなかった。情報も交錯していました。もしかして引越し先の部屋の電話回線がつながっているかもしれない、とパソコン持って引っ越し先のブルックリンへ走りました。ブルックリンはツインタワービルの下のほうなので、たくさんの人が橋を渡って逃げてくる流れに逆走する形になった。泣き叫ぶ人、怒る人、戦争を確信している人、いろんなものを見ました。中でもびっくりしたのは、大量に使い捨てカメラが売られていたこと。こういう光景もすべてがNYだなと。人間のすべてが剥き出しになっている。テロ直後は誰も家に帰りたくなかったから、それから2週間くらい夜の街が大繁盛していました。
|
⇒ [ 3 ]を読む |
|
|
|
|
|
|
|
|
| |
|