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■奏さんはかつて劇団員で、ずっと専業主婦をされていたとお聞きしました。
復活されたキッカケは何でしたか? 24歳で結婚のため劇団を一旦辞めました。 ずっと普通の主婦として子ども中心の
生活を送ってきましたが、5年ほど前に、座長(三宅裕司さん)の奥さんから電話が
ありまして。
「ねぇ、一緒にダンスしない?」とお誘いを受けました。
主婦グループ「ベーキングパウダーズ」というユニットで、歌やダンスをしていました。
それぞれ家族がある身ですので、負担を掛けない程度にホールを借りて発表会
をし、好評を博して満足しまして。 20人近くいたメンバーから、最終的に数人が
残って活動を続けています。
■長いこと眠っていた細胞や演劇の渇望が目覚めたのでしょうね。
いろんな方との出会いで刺激されましたか?
はい。なかでもアーティストの秦万里子さんとの出会いは大きかったです。
出会うことで感覚を共有できた。歌の弱点を指摘して伸ばしてくれたり、痛いところ
を押されて「うわ~イタ気持ちい~」みたいなツボ押しの名人です。
着眼点をあてて、笑いにもっていける才能があるんですよ。
機知に富んだところはスゴイです。
いつでも新しい歌には課題が込められていて、常に新しいことを乗り越えないと。
以前はできたのに、今できないと悔しいですしね。
■そもそも女優を目指したのは、いつ頃、なにがキッカケとなったのですか?
中学はソフトボール部、高校はバレーボール部所属で体育会系でした。
練習に明け暮れている校庭の隅のほうで、演劇部が発声練習などしているのを
尻目に「なんか演劇やっている子って暗~い」と思っていました。
それが、「演劇っておもしろい!」に覆ったのは、泉ピン子さんや梅沢富美男さん、
萬田久子さん、西田敏行さんなどが出演していたあるテレビ番組のドラマシリーズ
を観て、すごくおもしろかった。
そこから「私もお芝居やってみたい!」と思うようになりました。
高校3年生で進路を決めないといけなかったので、寮つきの都内の演劇学校へ進む
ことにしました。
■学校に通ったからといって皆が俳優になれる保障はありませんよね。
チャンスはどうやって切り拓かれましたか?
演劇学校の学生になって1年半の頃、卒業を目前にして、三宅裕司さんと小倉さん、
桑田さんのお芝居「あ!うんこついてる!」というのを観て、またまたおもしろくて
感銘を受けたんです。運よく劇団員募集のオーディションがあって受けました。
19歳で劇団員となってミュージカルアクションコメディーを演じることになりました。
お客様に見えないところでの鍛錬がすごいです。ともあれ、役者は体力です。
体力あっての気力です。
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