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■田原さんはテレビで拝見する限り鋭い突っ込みで色々なテーマに迫って
いらっしゃいますが、幼児期はどんなお子さんでしたか? 戦争が始まったのが小学1年生の12月。僕のいた滋賀県彦根市は疎開先として、
東京や大阪からたくさんの人が疎開してきました。
田舎にいる僕なんかより彼らは勉強ができましてね。否応無く競争心を燃やさざるを得なかった。むこうは標準語ですし、着ているものも洒落ている。
コンプレックスを感じましたね。
終戦を迎えたのが5年生の8月です。
4人きょうだいの一番上でしたから弟や妹の面倒をみていました。
終戦後の小5、小6、中1時代は物がなくて、靴なんて無かったので農家のお百姓さんの所へ行って藁草履の作り方を習って自分で作って履いて学校へ通っていました。
父は母の着物をもって、農家へ行って米に換えてもらったりね。見つかったら没収されてしまうのですが。持って帰ってきて、新聞紙の上に米を山のようにして、
その米の山に両手を突っ込む。その触感がたまらなく幸せでした。
■もともとご実家は何のお仕事をされていらしたのですか?
商家でした。最初は生糸を集めた絹糸問屋を。それから紐の工場を。
戦争中は落下傘の紐や、色々な種類の紐を作っていました。
それで敗戦を迎えて燃料が一切不足して、闇ブローカーまがいのこともしていました。
父は商売が下手で損ばかりしていましたし、家財道具がどんどんなくなって、
ついには仏壇まで売ってしまった。
■それを手放さなくてはならないほど緊迫していたのですね。
その時代何をするのが一番楽しかったですか?
義務教育を終えたら働くものだと思っていましたから、高校時代は家庭教師をして
学費を稼いでいました。その頃は、皆そうだったと思いますが、高校へ通うなら自分で
授業料など払うもの。
家庭教師先で、勉強中にお饅頭の差し入れがありましてね。
弟や妹が待っているから、それを食べずにそっと包んで持って帰ると、皆喜んで
分け合って食べるわけです。
何回かそんなことを繰り返していたら、そこのご家庭のお母さんが、
「これは持って帰る分、これは食べる分です」といってお饅頭をくれました。
■ジンとする、やさしい心遣いですね。
貧しい時代でしたから、そういう人のやさしさがとてもうれしく感じました。
なまじ豊かな時代ですと、なかなか人を思いやることが少ないでしょう。
あの頃は人の心遣いがとても強く感じた時代です。
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