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■先生の本やコラムは電車の中で読むと笑いが止まらず大変です。
人とは違うユニークな物事の捉え方ができるのは、子どもの頃から相当
おもしろかったのではと思いますが……(笑)
ひょうきんな子でしたね。
小学4年生頃がクラスの人気投票で一番で、人生の華でした(笑)。
給食の時、僕が好きなマーガリンがでると、たくさんの女の子がこぞって
「土屋くんにあげる」とくれました。
昼休みの時間に、毎日先生に指名されて創作童話(作り話)を発表していました。
準備をして臨めばいいのですが、準備が嫌いで、いつも出たとこ勝負。
その場で作りながら話していました。文章を書くのは苦手で大嫌いでしたけど。
■ご家庭で親御さんの影響を受けられたのでしょうか?
父は商売をしておりまして、母は琴を教えていて、父母共に小学校しか出ていない
苦労人でした。
母は家事を一切しない人で、すべて父が掃除、洗濯、料理、風呂、子育てを仕切ってやっていました。なおかつ仕事もして働き者でした。
母は結婚する時、「私は家事が一切できません」と告げていたそうなので。
好きな映画を見に行っている母に、父は弁当作って届けたり、お琴のお弟子さんの 下駄を数えてご飯の支度をしたり、炊きたてのご飯しか食べない母には炊きたてを
食べさせて、父と僕ら子どもは冷や飯を食べてました。
おかずだって、まず母が一番いいところを取り、残りを皆が食べる…という感じで。
■すごく先進的な家族と申しましょうか。その頃昭和20~30年代は、
まだ女性の自立なんて社会が認めていなかったのではありませんか。
自立とはちょっと違うんですけどね(笑)、たんに何もしなかった。 母が入院して病院食はまずいからイヤだと言えば、父が三食とも弁当を作って持って行ったり、ちらし寿司が食べたいと言えば、今みたいにレトルトがありませんから、朝早く魚を買ってきて、酢飯を作り、しいたけ、竹の子、れんこんなどに味をいちいち変えて煮込む、など手をかけていました。 本当に世話好きでマメでした。そういう父とは対照的に、母は何もせず、朝は起こされるまで寝ていたし、子どもとしてふるまっていました。箏の腕前はありましたが、箏以外はまるで子どもでした。
■そういうお父様がいらしたご家庭は多かったと思いますが、お母様がそういう
タイプでいらしたご家庭は無かったのではありませんか?
そうですね。ですから僕は母に育ててもらった覚えがないんですよ(笑)。
一言もああしろ、こうしろなんてことは言われなかったですし。
成績が良くても悪くても無関心だったですね。
父は逆に色々言いましたし怖かったです。よく怒られていましたから。
何しろどんなことで怒られるかわからないんです。例えば、僕が弟と将棋をしている
のを笑って見ていたと思ったら、次の瞬間「そんなくだらんことすぐやめろ!」と引っぱ
たかれたりしていましたから。理解不能です。
そういうおかげで、僕は落ち着きのない子になってしまった(笑)。
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