大ヒットの映画「おくりびと」での脚本、登場人物のセリフがとても研ぎ澄まされていて素敵でした。執筆されている上で苦労された点などは? 死をテーマに扱っているので後味をよくすることと、死ぬから涙がでるという物語ではないものにしたいと思いました。実質、執筆は1週間くらいで。いろんな仕事をやっていますので、その合間に書き進めて。 死のテーマは、ずっと昔から温めてきた題材で? いえ、これは俳優の本木雅弘さんからの持ち込み企画でした。実は最初お断りしたのです。納棺師という職業にも、死というテーマにも興味がなかったものですから。それ以上に、故・伊丹十三監督の映画「お葬式」が大好きでしたので、あの名作を超えるのは結構大変と思って。でも、どうしてもやらないかと説得され、やってみることにしました。 私も拝見しましたが、大きな映画館が満席で大盛況でした。 はじめは、単館ロードショーで、カンヌで賞を取るような映画になるといいなと思っていたのです。全国で大々的に複数の映画館で上映されるとは思っていませんでした。それがよかったのかもしれませんね。皆に見せないといけないというプレッシャーがあったら、もっと派手なシーンとか、不自然なシナリオになっていたかもしれません。 みる人によって色々な見方のできる映画「おくりびと」では、登場人物の細かな設定とかセリフにとても心動かされるものがありました。私も言葉を扱う仕事をしているので、薫堂さんは天才だ!と感じています。こういう仕事をするために、何か勉強をされてきたことは? 勉強は特にないかもしれませんが、強いて言えば発想法です。僕の弟はダウン症で、僕が小学2年生の頃、親父に呼ばれておでん屋で話しをされたんですね。「おまえは弟の分まで引き受けて、二人分の幸せを受け取って生きていかなければならない」と。だから、物心ついた頃から二人分がんばること。そして、ふつうということがいかに尊くて大切なことかを噛みしめてきました。ふつうであることが最大のチャンスなのだから、何かしなければならないと思って生きてきました。 今も多彩なジャンルで頑張れる原動力は、ご兄弟への思いがおありだったんですね。薫堂さんは子ども時代どんなことが好きで、お得意でしたか? 作文は得意でした。あと自転車で旅のようなことをするのが好きでした。住んでいた天草から熊本市まで100キロ近くありますが、小学生の頃にトランシーバー友達のアオキくんと一緒に走りました。アオキくんは黄色で、ぼくは緑でお揃いの自転車を買ってもらって冒険しに行きました。本はほとんど読みませんでしたが、授業中も先生の話なんか聞いていなくて、外をぼんやり見て空想するのが好きでしたね。そして、今の原点なのかもしれませんが、誕生会が好きでした。呼ばれたら、何をプレゼントして喜んでもらおうとか。自分のを企画する時は、誰を呼んで、どんな演出にして、何を食べようと考える。人を喜ばせることが当時から好きでした。 |
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