映画「おくりびと」の脚本も手がけた 小山 薫堂 (こやま くんどう) さん 1964年熊本県生まれ。 放送作家、脚本家、編集者、ラジオのパーソナリティー、他にも大学の講師、ホテルの顧問など、とっても幅広くご活躍です。そのパワーの源を培ってこられたのは、子ども時代にも何かあるのではないかと思い、今日はお話しを伺いたいと思います。まず最初に、小学生時代はどんな大人になりたかったですか? 将来像というよりも、親孝行がしたいとばく然と思っていました。当時、叔母がアメリカに嫁いで向こうに住んでいまして、その影響を親父と祖母が受けていて、「あっちは広い部屋で、リビングもキッチンも一緒のワンルームで暮らしてるぞ」と。その頃、日本家屋の細かに部屋が分かれている構造しか知らないでいたので、ワンルームという発想自体が素晴らしく感じた。だから、大人になったら「親父のためにワンルームを買うんだ!」と。 そんなふうに考えられるだけでも十分に親孝行ですね。 僕の住んでいた熊本の天草というところは、とても田舎で。その環境にしては、ませた子どもでした。飛行機の座席の予約とか自分でしていましたね。「2階席お願いします」とか言って(笑)。 何でもご自分でおやりになって自立心が旺盛でいらして。遊び方もおませなことを? おじさんにもらったトランシーバーを使って遊んだりしていましたね。今で言う携帯電話みたいなモノ。何キロも先に電波を飛ばすにはアマチュア無線の免許を取得しないとならなかったんですが、同じ種類のトランシーバーを歯医者の息子の友人・アオキくんに買ってもらって、「アオキくん、今からお風呂に入ります。どうぞ」とかやっていました(笑)。だから大人になって携帯電話が出始めの頃、すぐ買いましたね。 私も小学生時代やっていた覚えが(笑)。インターネットでハンドルネームがあるみたいに、無線でも専用の呼び名があって「アビーロード」と呼ばれていました。名前そのまんまやん!ですが。ところで薫堂さんのお母様、お父様はどんな方でした? 母は美容師をしていました。父は美容室を経営する一方で、貸金業、不動産業、貸衣装など手広く商売する町の商人でした。両親とも仕事で忙しかったので、家にはお手伝いさんもいました。だから、母親の愛には飢えていましたね。どちらかといえば裕福な家でしたが、僕は「おやつ」に憧れていたんです。ある時「お小遣いはいらないから、おやつを作って」と母にお願いして、期待に胸を膨らませて学校から一目散に帰宅したら、冷蔵庫の中にみつ豆の缶があって……。そんな母の不器用さに怒りが湧いたのと同時に、悲しくなった覚えがあります。焼きたてのパンとか手づくりのアイスクリームが欲しかったのに(笑)。だからといって母を恨んだりすることはありませんでしたが、子どもながら苦笑いをしていましたね。 |
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