野村るり子さんは2013年1月13日にご病気のためご逝去されました。 野村 るり子 (のむら るりこ)さん ペンシルバニア州立大学体育学部卒業。慶應ビジネススクールでMBA取得。フルブライト奨学生として、ハーバード大学教育大学院のEdM(教育学修士)取得。日米双方のオリンピック委員会指定クラブで体操競技指導。 2000年(株)ホープス(www.hopes-net.org)を設立。現在は、企業向け教育コンサルティング、スクール講師派遣、企業への人材派遣、コンテンツ・クリエイティブ(翻訳・書籍原稿作成等)、個人向け教育コンサルティング、セレブリティー支援を展開。主な著書に『英語でプレゼン』、『英語でスピーチ』、『英語でミーティング』(以上、日興企画)。『面白いほど身につく論理力のドリルブック』、『英文履歴書の上手な書き方と実例』(以上、中経出版)など。 るり子さんの著書、共感する点が多くておもしろかったです。ご自身の子ども時代4~5歳頃のことをお聞かせ頂けますか。 自分の考えがハッキリしていた子どもで自分が納得しないと、大人がこう言っているから…ということでは動かなかった。個人プレーが好きで一人完結型。お友達と一緒の集団行動も苦手で、群れからちょっと離れているのが常でした。体を動かすのがとても好きでしたから、これは後に体操教室で発揮できるようになりました 習い事はとてもたくさん。幼稚園の頃からピアノ、水泳。小学校からはバレエ、ネイティブによる英会話、英語文法、体操教室、日本舞踊、習字。他、中学校では数学の家庭教師についてもらっていました。 そんなにたくさん!お母様は英語塾を経営されていらしたとか。習い事を多くされていたのはご両親の意向でしたか? 母は帰国子女で英語が得意でしたので寺小屋のような英語塾を開いていました。我が家はけっして裕福ではなかったのですが、習い事に投資したのは、ひとつを継続させるのではなく、たくさんのことを経験させる点にあった。ですから「辞めたい」と言えば、すぐに母は辞めさせてくれました。 ピアノはやりたい意思がまったくなかったので伸びませんでした。習字も書道展で賞を獲ったりするレベルまでいきましたがやはり自分の意思で始めたものではなかったので継続しませんでした。英語は生きる上で必要でしたので、今も仕事で使えていますが英語が好きと思ったことは一度もないのです。その反面、体操競技はやりたくて始めたことでしたから、コーチとして世界選手権に参加するところまで行きました。バレエも好きでしたので大人になった今でも成人コースに通っています。 習い事をたくさんされていたことと関係ないかもしれませんが、るり子さんは15歳で単身渡米されてずっとアメリカで生活をされてきました。15歳でそこまで決意できたのはなぜなんですか? 15歳の時点で両親の期待通りに生きることが苦痛になってアメリカへ留学しました。母からは「面倒臭い子」「理屈っぽい子」「頭の悪い子」等、言われました。期待に沿わないと「恥ずかしい」と。私にとってはそういう評価は嫌でしたが、それが日本を脱出するきっかけになりました。私は幼稚園受験をしてエスカレータ式で上に行ける学校に通っていましたが、それは親の意向で敷かれたレールを行っていたわけで私自身が選んだことではなかった。ですから自分自身で選んだところに行きたかったのです。そういう気持ちが芽生えたのが小学3~4年生の頃でした。アメリカでのステイ先でキリスト教のファミリーと出会い、そこでは日本で受けたのとはまったく逆の教育を受けました。 文化や宗教観の違いはいろいろあったと思いますが、ステイ先ファミリーとの出会いが転機となられたのですね。どんな点がそれまで過ごした日本の環境と違っていましたか? 主体的に自分のしたいことを選ばせ、どんな小さなことも褒める。もって生まれたものに感謝する。与えられた環境に感謝する…このような教えでした。15歳で渡米してから根本から教育方針が変わって、まったく異なる人格に生まれ変わりました。プラス思考で前向きですし建設的になりました。アメリカの教育に感謝しています。私が今仕事で生徒に接する時も、「子どものよい面を見つける」「見つけたよい面を褒めて、強みを伸ばす」「建設的に話をする」という大切なポイントがあります。それはすべて15才で渡米したからこそ培うことができた視野であり、教育的土壌です。 |
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