目標を明確にもって突き進んだわけですね。もう~穏やかそうなコウケンテツさん、実はなんて熱い!!(笑)それからは? テニスクラブのジュニアチームは18歳になるとクラブを出なければなりませんが、僕はまったく試合に勝てずコーチにも「辞めたほうがいい」と言われました。でも何とかしたい…とあきらめきれず、テニスのコーチをしながらプロを目指す道があることを知ってそれだ!と、クラブに残りました。でも気が焦ってしまい、オーバーワークでハードトレーニングをして椎間板ヘルニアになってしまった。今でこそ手術方法もいろいろありますが、当時は手術という選択肢はなくて。19から21歳の2年間ほとんど自宅で寝たきりの生活でリハビリを続けました。テニスは完全に断念せざるを得なかった。寝たきりになって僕は何もできなかったけれど、家族はいつも通り接してくれて、毎日支えてもらいました。 それは大変でしたね。実力云々ではなく体を壊すと心も折れちゃいますもの。復活できてよかった。 元気になってからは夢を追うのは二の次で、とにかくお金を稼がなくては…とアルバイトを何種類もこなし一日20時間くらい働いた。パン屋、レストランの厨房、本屋、ビデオ店、配送業、警備員…夜の仕事以外はほとんどやりました。良い先生と出会えてヘルニアもよくなったので20代はひたすら労働。家族皆が頑張って少し家計も持ち直して、僕が23歳の時に母が「末っ子もやっと元気になって社会で働けるようになったので、今度は私が自分の夢を追いたい」と料理家になりました。休みの日は、母の仕事を手伝うようになった。料理が大好きでしたから、傍で母の仕事っぷりを見ているうちに「おもろい仕事やなぁ」と。荷物運搬係から洗い物部隊に入り、韓国料理の要であるタレ混ぜ係に昇格。タレを味見しながら「これはこう作るんか~」「これが隠し味なんか~」とイチイチ発見と感動。だんだん母も忙しくなって、東京から大阪へ出版社の方が来るようになりました。僕が30歳になった頃、某出版社の編集長から僕に「連載をしてみないか」と誘いがあって、僕の料理食べたことも無い方でしたが大抜擢をしてくださった。 料理家になりたい!という欲より、土台に料理好きな自分がいて、それを理解してくれる方に恵まれた…理想的な展開ですね。 気がつけば常に料理があったので、巡り巡って本来の場所に戻ってきたような気がします。姉も料理家ですが、上の兄二人共、僕より皆料理がうまい。だからこの世界に入る時「おまえより俺のほうがうまいのに大丈夫か?」と心配されました(笑)。自分が考えたレシピが雑誌に掲載…それはお金のためだけに働いていた頃は考えられなかった充実感で一気にのめり込みました。僕はここまでいいタイミングで手を差し伸べてもらって、ありがとうございます!とそれに乗ってきたんです。 コウケンテツさんのお人柄が仕事を創り、人との出会いを引き寄せていますね。では最後に子育てする同世代へ習い事をテーマに、メッセージをお願いします。 料理は脳にすごくいいし、親も一緒に楽しめる。習い事はお金も、送り迎えの労力も必要ですが、そんなの不要で毎日できるのが家庭料理。五感を使うでしょう?ハンバーグを作るにしてもひき肉、玉ねぎ、卵…と素材を集めて、切って混ぜてこねて成型して…イマジネーションをフル活用。うちは居住区の保育園待機児童が多すぎて1年間保育園どこも入れず、1歳と3歳の一番手の掛かる時期、僕はリアルにおんぶ紐に子どもを背負って、もう一人遊ばせながら料理と撮影をこなしていました。息子は僕の手際を見て、ミニカーで遊ぶと同時にフライパンでも遊ぶようになった。やらせないと30分大泣き。料理は5分、10分やらせれば満足してやめます。だからむしろ全工程に関わらせるのでなく、ピンポイントでいい。4歳になった息子は今や、自分で野菜炒めを作れるようになりました。子ども二人共まだ小さくてお休みしていますが、下の娘が4歳になる頃には、子どもの料理教室を再開して全国規模で開催したいですね。 ---ありがとうございました! <了> ●コウケンテツさん 活動情報
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