林家たい平(はやしや たいへい)さん 落語家。1964年 埼玉県秩父市出身。本名は田鹿 明。武蔵野美術大学造形学部卒業後、88年、林家こん平に入門。00年、真打昇進。14年、落語協会理事就任。武蔵野美術大学客員教授。血液型B型。06年より人気演芸番組『笑点』の大喜利メンバー。 落語においても明るく元気な林家伝統のサービス精神を受け継ぎながらも、古典落語を現代に広めるために努力を続け、落語の楽しさを伝えている。たい平ワールドと呼ばれる落語には老若男女数多くのファンを集め、年間を通じ定期的に行う自らの独演会を中心に全国でも数多くの落語会を行っている。落語の伝道師として名を広め、これからの落語界を担う、今もっとも注目を浴びる落語家。 » 林家たい平さん 公式サイトはこちら» オフィシャルブログ「そら色チューブ」はこちら 落語家ってなりたいと思ってなれる職業ではない天性の何かが必要なのでは?と思います。「笑点」でもよくネタになりますが、ご実家は埼玉県秩父市で、どんな幼少期をお過ごしでしたか? 実家は注文紳士服店を営んでいました。6歳上の姉、4歳上の兄、そして末っ子の僕の3人きょうだいです。商売をしているせいか常に家にはお客さんがいて、食事も家族だけで食べることがほとんどなかったせいか「勉強しろ」とは言われた覚えがありません。みんなを笑わせて楽しませるのが好きで、人がいっぱいいるところが好きでした。 その当時、何か習い事をされていらしたんですか? 近所にたくさん習い事ができる教室がありましたので通いました。同級生木村君のお父さんが書道塾をしていたのでお習字、同級生よしこちゃんちのそろばん塾、町のソフトボールチームや、裏のお寺で少林寺拳法を習っていました。 きょうだい喧嘩はありましたか?美大へ進まれたので、絵の才能も幼少期からかな?と。 姉とは年齢も離れていたので喧嘩になりませんでしたが、兄とも取っ組み合いの喧嘩はなかったんです。僕が怒ると逃げていってほとぼりが冷める頃また現れる。絵や工作なども手先の器用な兄の方がだいぶ上手でした。秩父はお祭りに山車が出ますが、夏休みに実物の山車の1/15のサイズでバルサ材を使って見事な工作をしたり。いつも兄にはかなわないと思っていました。僕の夏休みの絵の宿題は、兄か姉の友達に描いてもらっていたし(笑)。絵が得意だなんて意識は子どもの時分にはなかったですね。兄みたいに描けるといいな、という憧れはありました。 テーラーメイドのお店を切り盛りされる家業の中で、自然と身についた作法や社会性もあったのでは? 繁忙期は仮縫いをほどく仕事を1回50円のお小遣いで子どもたちが担当しました。それを握って駄菓子屋で駄菓子を買うのが楽しみでした。両親がいつも忙しそうに働いている姿を見ていましたから、子ども心に自分ができることはしようという気持ちが芽生えました。働くとお小遣いがもらえるということもありましたが(笑)。その後、スーツは「作る」のではなく「買う」時代となって、家業として継ぐことなく親父の代で店は終わりました。 |
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