組み体操や、2分の1成人式いずれも少し視点を変えて違うものを展開するのもアリでは?例年通りに開催し続けているのは、ひとえに教師の多忙が理由なのでしょうか? 組み体操も2分の1成人式も、その主犯は教師、共犯は保護者。そして被害者を直接受けるのは、子ども。どちらもこの10年くらいで流行り出した新しい行事で、それまではやっていなかったわけです。プログラムを考え決定するのは教師の役目で、実際に毎年新しい要素を取り入れながら、話題を呼ぶようになってきました。にもかかわらず、批判が出てくると、「代替案がない」「時間がない」という言い訳で逃げるのは、ずるいと思います。結局教師が「善きもの」にこだわっているから、選択肢を増やせない。そして、「善きもの」を観客として盛り上げているのは保護者です。「善きもの」は善きがゆえに歯止めがかからず暴走しやすいのです。 組み体操に特化していえば、やはり危険を冒してまで感動を追求する意味がわからないなぁ~と。リスクの少ないものに変えると感動が薄まる…という感覚でしょうか? 「感動」「一体感」こそ教育として重要であるなら、けっして高さや大きさを求める必要はないのです。1段や2段の組み体操でも一致団結したダイナミックな演技は可能。ソーラン節をみんなで踊ることでも一体感は十分に得られます。組み体操ありきではなく、さまざまなデータをもとに現実を直視した議論が必要で、「感動」の呪縛から解き放たれることです。 組み体操や2分の1成人式の2つに絞って言えば小学校でのイベント。これから小学校の教師はどんなスキルが必要だと思いますか? 教師にとって最大の仕事は、学級をまとめあげることです。いかに自分の子どもとして仕立て上げるか?集団作りが最優先されます。大学卒業してすぐ教師になれば22,3歳の頃からずっと定年まで毎年30名、40名の部下をまとめる仕事。組み体操も2分の1成人式も、まさにそうした教師の仕事を象徴するものです。でも、ときにはそういう立場から少し距離を置いて、一人ひとりの声を拾うこと。苦しみをもつ子の声をかき消さず、敏感であってほしいです。 教師だけでなく保護者と私たち市民の意識や視点を変えていかないと、この国で育つ子どもたちが苦しむことになりますね。 僕は先生自体を直接に変えようとは、ほとんど思っていなくて、むしろ学校を取り巻く外側にいる人、マスコミを始め保護者や、こうした問題に関心をもつ人たちを巻き込むことが大事だと思っています。学校や学級は閉じた世界ですが、もっと風通しをよくしていくべきでしょう。自分の教育観をいったん置いて、子どもが苦しいと言っている時にはそこに耳を傾けてほしい。組み体操でいえば「痛くてしんどい」と子どもが言ったとしたら「がんばれ。お前がいなかったら成り立たないじゃないか」というような声掛けをしてしまうものです。そうではなく、教師も保護者も、苦しむ子どもの声をだいじにしてほしい。次世代の教育のヒントはそこにあるのだと思います。 ---ありがとうございました! <了> 内田 良さん 活動情報
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