大阪へ転校されて、やっとお母様と一緒に暮らせてうれしかったのではないですか? 転校早々、河内弁で捲し立てる不良に囲まれて怖かった。大阪嫌いで鹿児島に帰りたくて、前の中学校のテニス部顧問の先生に相談して「婆ちゃんの言うこともちゃんと聞くようにするから鹿児島へ戻ってきたい」と言うと、戻ってきなさいと。さっそく大阪の兄ちゃんに電話すると「薩摩隼人が一度決めたことを覆すとは何事だ!大阪戻ってこい!」と烈火のごとく叱られました。その5日後、兄は職場の先輩と喧嘩し辞表を出して鹿児島に戻ってきたのでアベコベでしたが…。母とは筆談が主で会話をしませんでした。 ノンフィクションにしては本当おもしろすぎますが、お母様との筆談はどんな内容で? 「銭湯行くからお金」「トマトが食べたい」…とかそんなことですね。小1から離れて暮らしていたので文通はずっとしていたので、文字では気持ちを表現できたのです。反抗期でも日記や詩、感想文を綴ることは好きでした。高2の文化祭で寸劇の台本を書いたら、とっても笑ってもらえましてね。それが快感となってこういうことが仕事にできたらいいなぁ~と思うようになったのです。自分でシナリオを書いて、監督も主演も務めるチャップリンのようになることが第一志望でしたが、当時はそうしたことがなかなか叶わず、新作落語はシナリオを自分で書けると知って、それが第二志望でした。 高校卒業後に落語家の世界へ…となったのは何がきっかけでしたか? 雑誌でたまたま師匠のインタビュー記事が載っていたのです。今の若いのは修行に耐えられないから、ずいぶん長い間、弟子を取っていないと語っていました。それを読んで「弟子がいないということは、先輩がいないということ。いじめられることもないから安心だ!」と思いましてね。高校卒業して、毛布2枚リュックに背負って麹町のお屋敷街にある師匠宅へ行って「弟子にしてください」と直談判しました。18歳で未成年ですから親の承諾書が無いと受け付けられないと言われ、大阪の母ちゃんに電話をして上京してもらい、「ダメなようならすぐ返しますが、しばらくお預かりします」と師匠が承諾してくださいました。 すごい行動力ですね。その熱意が素晴らしい。そこから現在まで芸歴37年。振り返っていかがですか? 昭和62年に真打ちになって、30代くらいから時間が過ぎるのが、速すぎると感じています。ゴールを設定しないとだらけてしまいそうなので、マラソンランナーとして走ることも好きな私は42.195キロという距離を芸歴に置き換えて、42年目を節目とし、この先続けるか辞めるか考えようと思っています。今は37キロあたりを走っている感じですね。あと5年ですからやらねばならないことがいっぱいです。3000冊ある蔵書をもう一度読み返そうと思っています。 ⇒ [3]を読む |
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