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落語家 三遊亭歌之介さん

三遊亭歌之介(さんゆうてい うたのすけ)さん

1959年鹿児島県生まれ。1978年大阪市立汎愛高校卒業後、三代目・三遊亭圓歌に入門。前座名、歌吾。1982年二つ目昇進し、三遊亭きん歌となる。1985年若手演芸大賞最優秀二つ目賞を受賞。NHK新人落語コンクール入賞。1987年5月真打昇進試験に新作「寿の春」で合格。同年10月、先輩18人抜きで真打昇進。初代・三遊亭歌之介となる。1990年、鹿児島県より「さつま大使」の任命を受ける。»  三遊亭歌之介さん 公式サイトはこちら

貧しくても母思いの少年時代。

歌之介師匠は鹿児島県出身者には特に鹿児島の宝物!と絶賛されています。幼少期のお話も新作落語でお話しされているようですが、このインタビューで詳しくお聞かせ頂けますか?

私が住んでいたのは鹿児島市内から2時間位掛かる端っこで自然豊かな田舎。小学1年生の時、両親が離婚をしたのが人生の転換期でした。それまで京都で暮らしていたのですが、母と私、5つ上の兄、3つ上の姉は、母の実家がある鹿児島に戻りました。母は半年間ほどラーメン屋でアルバイトをしていて、小1の私が食べに行った時にラーメンを食べずに器を見てじっとしていたのです。「のびるから早くお食べ」と店主の女将さんに言われ、「このラーメン食べたら母ちゃんの給料から代金引くの?」と聞いたら「大丈夫。何杯食べても引かないよ」と答えられました。母ちゃんは小1の子にそんな気遣いをさせるなんて…と感じたようで、その後3人の子を食べさせるために単身大阪の紡績工場へ出稼ぎに行きました。

そんな御苦労がおありでしたか。では祖母様とごきょうだいと暮らしていたのですね。

母は2年に一度くらい…兄や姉、私の卒業式にしか大阪から帰ってきませんでした。生活保護も受けていたのですが、その意味が小さな頃はわからなかった。学期末になると担任の先生がクラスの中で6名ほど名前を呼んで「呼ばれた人は残ってください」と言われまして、学校近くの文房具屋に連れて行かれて「2千円分何でも好きな物を買っていいよ」と言われたのがうれしくて…きっと先生は俺たちのこと特別に好きなんだな、と思っていました。3年生になってもそれが続いたので、ある日祖母に聞いてみたら「生活保護だから。うちは優秀だから国から補助が出るの」と言われました。他のメンバーの名前も挙げたら、皆片親の家庭環境でした。でも一人ではなく、同じ境遇の仲間が他にもいたから凹まないでこれたのかもしれません。

今ではそんな境遇の子どもがいたら何らかの処置がされるのかもしれませんが、当時はそうだったのですね。

家計を助けるために小学1年生からヤクルトの配達もしていました。当時は瓶でしたから重かったですよ(笑)。兄ちゃんも姉ちゃんも、皆で手分けして配達を毎朝していました。貧しくて…お風呂も3日に1回。銭湯はありませんから五右衛門風呂。薪をくべて焚くのです。ですから大人になって自分の家を持った時、まっさきにお風呂場だけはこだわりの場として設計しました。

貧しかった時代を糧にして素晴らしいです。というか皆が貧しかったから比べることなく支え合えたのかもしれません。

私は昭和34年生まれですが、田舎育ちなもので同世代には「そんなことが!?」とよく驚かれます。小6修学旅行の時はお米を一人一合家から持ってくるように担任に言われ皆のお米を集めました。そうすると宿のお米代がただになるから…と。今では考えられないエピソードです。大阪にいる母ちゃんのところへ中2から転校しました。兄は高卒で大阪に出て働いており、姉は中卒で東京で美容師見習いに、中学1年の1年間、婆ちゃんと2人暮らしになって、反抗期だった私は手を焼かせて婆ちゃんから「大阪へ行って暮らせ」と出されました。初恋の人もいて、鹿児島を離れたくなかったのですが…(笑)。

兄、姉が上にいる3人きょうだいの末っ子として育った。(右端が歌之介師匠)

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