小さな頃はどんなお子さんでした? 1歳違いで弟がいますけれど、ひとりで何かをするのが好きな子でした。本をたくさん読んで、物語を創ったり絵を描いたりするのが好きで、将来は童話作家になりたいと思っていました。言葉を覚えるため、3歳頃から絵日記をつける習慣がありました。最初は絵だけ描いて、文章は母が書いていましたが、そのうち文章を書くようになった私の言葉を母が添削してくれるようになりました。その繰り返しで文章を書くのが好きになったし、4コマ漫画を描くのも好きでしたね。 うまれつき耳が聞こえない状態で、学校生活はどのように過ごされましたか? 小学校は親の意向で公立小学校の普通学級で過ごしました。聞こえる人の中で過ごしたほうが将来的に役に立つだろうという考えからでした。小学校入学時、私は4月生まれで体も割と大きくて足も速かったし勉強もできました。でも高学年になると男子は外遊び、女子は教室でテレビの話で、だんだん輪の中に入っていけず一人で本を読むことが多くなりました。 授業だけでなく友達関係も大変なことが多かったのに頑張りましたね!中学校も普通学級に通われたのですか? 中学にあがるといじめがひどくなりました。小学校の頃は一人の先生が全教科教えてくれたので『口を読む』ことに慣れれば何とか勉強はできましたが、中学では各教科先生が違いますし、口を読み取りにくい先生の授業はわからないから勉強についていくことが難しくなりました。部活も厳しい上下関係があって……一日休んだら翌日登校ができなくなってしまった。でも母は無理やり車で送り、学校の前でおろされて…母も心痛めていたと思いますが、私も泣きながら登校。中学2年の頃が一番苦しかった。その後、聾学校に転校。初めは手話でコミュニケーションできなかったのですが、好きな先輩ができてから話したくて猛烈に手話を勉強しました(笑)。聞こえないおかげで、先輩と出会えてよかったと…聞こえない自分を肯定できた初めての出来事でした。 人に恵まれる運命ですね。高校ではどんな学校生活を送られました? 高校を卒業したらアメリカの大学へ行きたい気持ちがあったので、聾学校の中でもレベルの高い千葉県にある筑波大学付属聾学校へ進学しました。そのために寮生活をして通いました。でも、そこでまた壁にぶつかり…バレー部に所属した私は、行動が生意気!と恨みを買われて孤立し…結局、エリート校から田舎にある聾学校へ転校しました。しかし、またそこでもうまくやっていくことができませんでした。「私はあなたたちと違う」という私の意識がどこかで出ていたのでしょうね。楽しい学校生活を送りたいけれど、もう傷つきたくない。そんな時担任の先生から「生徒会長やってみないか?」と声を掛けてもらった。立候補して生徒会長に就任してから、やっと道が拓けてきました。 ⇒ [3]を読む |
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