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■三味線を習うお子さんて当時珍しかったのでは?と思いますが、いかがでしたか。 良一郎:三味線業界でも一番年下だったと思います。早くても6才くらい、9~10才から始めるのが普通のようですから。三味線は子供用がないんです。大人が使うのと同じものを使って演奏するので、津軽三味線を演奏するのは、まず無理。僕らは民謡三味線といって、細長い芸者さんが使うのと同じものを使っていました。
■習い始めたキッカケは何だったのでしょう。ご家庭の環境に音楽は身近にあったのでしょうか。 良一郎:父が決めたんです。家には何も楽器はありませんでした。友達はピアノやエレクトーンを習っているのに、なぜ?と思いましたが(笑)。とにかく習い事がしたかったんですね。だから、三味線がどんな音が出て、どんな形のものかまったくわからなくても、習い事ができる!というので、すごくうれしかった。ですが、三味線屋さんが近所にあるわけでなくて(笑)、父が手づくりでおもちゃの三味線を作ってくれたんです。洗面器2つ合わせて、ネックのさおには雪かき用のスコップの柄を差し込んで。弦を張るところつくって。「こういう楽器だよ」と与えてくれたので、それで遊ぶようになった。その後、近所に先生がいたので、そこへ通うようになりました。 健一:稽古場の送迎に付いていくようになって僕も三味線を知るようになって、兄と同じ5歳になって始めました。小学校にあがると、今度は友達なんかに「おまえら、爺婆のやる三味線なんか習っているのかよ!」などとからかわれて、奴らに見つからないように回り道して三味線教室まで通った覚えもあります(笑)。三味線だってカッコいいぜ。いつか見てろよ!みたいな気持ちもありました。
■タイプ的にやはり素直なお子さんでした? 健一:まぁ当時は(笑)。でも、家の中でずっと三味線を弾いているわけでもなく、外で遊ぶし、兄弟喧嘩もしましたし。小学校時代は特に、自分の友達と遊ぶよりも兄貴の友達なんかに混ぜてもらって遊んでいました。そっちのほうが魅力を感じて、金魚の糞状態(笑)。 良一郎:今みたいにゲーム遊びもない時代で、環境的に山・川・海に囲まれていて友達もたくさんいたので山の中で遊んでいましたね。
■お父さんの存在は威厳がおありだったのかしら? 良一郎:「勉強しろ」と言われたことは一度もなかったですね。その代わり、「いくらでも遊んでいいから、三味線をやる以上、一日一度は三味線に触れ」と。それは毎日言われましたね。父が帰宅する7時頃を見計らって、三味線を出して練習しているフリはずっとしていました(笑)。 健一:一人は見張り番、一人は楽器を出す役で(笑)。兄弟の共同作業でしたよ。
■お父様は音楽をなさっていた方なんですか? 健一:いえ、普通のサラリーマンでした。でも絵が好きで日展とかに出品して入選したり。若い頃、津軽三味線の魅力に取り付かれて一時期習っていたようですが、当時は道楽だという見られ方をして断念したようで。その夢を僕らに託したんですね。 良一郎:父はギターをやっていたんです。それで三味線と出合って、三本の弦でこんなに人を魅了するものが世の中にあるのか、と驚いたようです。
■今これだけご活躍なので、お父様も感動されているんじゃないですか? 健一:三味線で仕事が成り立つとは思っていなかったですから。僕らも30代後半から40代くらいになってCDでも出せればいいなと思っていたのが、意外なほど早くデビューできましたので。
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