■デビューされて8年目ということで、メキメキと実力も知名度も上がってきましたね。昨年末の全国ツアーだけでも一日刻みくらいの勢いでお忙しかったのでは?お客さんからの手ごたえはいかがですか? 健一:デビューからですと国内だけで600公演。始めた当時は年間100本こなしていましたから、今は減ったほうかもしれません。海外でもアメリカ、スペイン、香港、韓国などたくさん演奏してきました。NYでは三味線にタテノリでのってくれます。最初は受けるかどうか不安でしたが、やってみるとジャンル問わず何でも受けとめてくれて。フラメンコの国、スペインでは弦楽器には深い思い入れがあって、三味線とのセッションも共通点が多くおもしろかったです。
■日本人の伝統楽器を海外で伝えていらっしゃるのは感動します。北海道登別ご出身で、お兄さんが先に東京へ? 健一:兄貴が先に民謡の勉強がしたいということで、住み込みの仕事場(民謡の店 浅草「追分」)を見つけて上京。僕は東京へ来るつもりは全然なかった。北海道に残って「吉田兄弟」として三味線を弾いていこうと思っていたんです。一方で、場数が少ないということもあった。ただ、札幌のミュージシャンの方からセッションのオファーが増えて登別から札幌まで(距離にして100キロ、時間にして1時間半)車を飛ばして通ったり。フラメンコのカホン(ペルーの楽器)をやっている音楽家とのセッションをして、とても刺激を受けて、自分で曲をつくりたいなと考えるようになった。僕は、伴奏では兄貴に勝てないから、曲弾きで勝ちたいと思うようになったんですね。 良一郎:僕は高校時代、半分三味線の仕事をしていたので、ある程度稼ぎもあった。北海道も回っていたので大体、仕事の内容は把握できた。津軽三味線は、伴奏ができないと一人前でない、という暗黙の了解がある。そうであるなら、北海道では伴奏する機会が少ないので、東京へ行けば場数が確保できるだろう。たくさん歌い手もいるはずだから。という勝手なイメージがありました。三味線を弾きながらお金をもらえる場はないかと探していたら、浅草に民謡酒場「追分」を見つけた。問題は、練習場所の確保でしたから。聞けば、給与も出る、食事も付いて、練習もできる。本当にありがたかった。 健一:北海道では何時に練習しても大丈夫ですが、東京の住宅事情だと中々難しいものがありますからね。
■東京で活動されてからは、どんなことが大変でした? 良一郎:いっぱいありますけれど、民謡を覚えるのが大変でした。東北の民謡はある程度知っていたのですが、東京から西の民謡がまったくわからない。それに民謡酒場では、飛び入りで歌いたい民謡をお客さんが歌うので、即興で伴奏できないとダメなんです。譜面も見ないで演奏できないといけない。何度お客さんが「こんな三味線じゃ歌えない!」と怒ってステージを降りてしまったことか……。毎日一曲くらいのペースで民謡を覚えていかないと間に合わなかった。ただ、伴奏は上手くなっても、ソロ弾きが下手になっていった。1年1度の大会にも入賞できなくなってしまった。2年間はスランプでした。伴奏もソロ弾きもおかしくなった。どうすれば自分を表現できるんだろう?と。 健一:僕が高校卒業してから、「吉田兄弟としてCDをつくらないか?」と知り合いから誘われて、8月に録音、11月にリリースしました。僕がオリジナルで作った曲も入れて、出したファーストアルバムが「いぶき」というタイトルのものでした。トータル6曲、32分しかないアルバムで。 良一郎:レコーディングでは民謡ではありえないリズムでオリジナル曲を弾くのと、仕事場の追分では民謡の伴奏を演奏しなければならなくて、切り替えが大変でした。
■吉田兄弟のネーミングは、そのままですけれど。ネーミングとかお考えにならなかった? 良一郎:津軽三味線の大会に出るようになってから、僕も健一も入賞するので、地方新聞などには必ず「吉田兄弟入賞」とか載るんですね。で、色々な催しにお声が掛かるようになりまして、行ってみると「吉田兄弟コンサート」とか看板ができている(笑)。名前をわざわざ作らなくても、それで充分認知されるなら…という感じで。
■どの辺から、吉田兄弟としてブレイクを感じました? 健一:2000年頃から「茶髪に紋付ハカマ」というキャッチがメディアに出始めてからですね。最初は新聞、それから雑誌に、そしてテレビ、ラジオにかわり、インストアライブでも演奏するようになった。それでも、最初は年配のファンの方が多く御座を敷いて、後方に若い方が立っていた。それがメディアでの露出が増えてどんどん変化してきました。
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