森 優子(もり ゆうこ) 1967年大阪府堺市生まれ。大阪芸術大学美術学科卒。ガイドブック『地球の歩き方』などの編集ライターを経て93年独立、イラストも含めた執筆活動をスタート。著書に『旅のそなた!』(旅行人)、『旅ぢから』(幻冬舎)、『買ってよかったモノ語り』(晶文社)他。『女性のためのトラブル知らずの海外旅行術』(晶文社)は台湾と韓国でも翻訳出版。イラストと写真満載、軽妙な語りで展開するトークショーのファンも多い。東京在住。モットーは「私の旅をしくじってたまるか」。» 森 優子 facebookはこちら 森さんのおもしろさは本を読んでも堪能できますが、やっぱりライブのしゃべりが個人的にはピカイチです。幼少期からユニークなお子さんでしたか? 実は、私はいわゆる世間でいうところの『ちゃんとした良い子』でした。実家のある大阪府堺市はベッドタウンで小学校のクラスが1学年11クラスもあった時代。私は何もしないでも勉強ができて、できないのは運動だけ、お絵かきや作文もこんな風に書けば先生も喜ぶだろうとわかっちゃってるような子でね。とはいえそんな自分を気に入っていたわけじゃないんです。2歳上の姉はスポーツ万能で、姉妹タイプが違いましたが、同じ中高一貫の女子校に通いました。 女子校育ちとは意外でした。中学受験をされて進学なさったわけで? 母が自分の出身校に娘を行かせたかったようです。姉は泣きながら受験勉強して合格しましたが、私はスルスルっと2番の成績で入学。小6の頃に家庭教師の先生が間違えてかなり難しい問題集を買ってきて、能力以上の勉強をせざるを得なかったので成績が上がった(笑)。中学時代、すごくわかりやすくノートをまとめるのが得意で、テスト前は私の絵付きノートが珍重されました。クラスの違う知らない子も、みんなが私のノートのコピーで試験勉強してるって感じで、今でも同窓会で「あなたのおかげで卒業できた」って感謝されるんですよ(笑)。高校2年生の時に先輩から立候補を命じられて、生徒会長に選ばれ就任。当時からわりと話術はたけていて、スピーチが受けたんですよね。でも何事も自ら積極的にトライして熱く活動するというより、褒められるし望まれるからやってみる、というスタンスでした。話術や知識のベースは「大人から誉められるから本をいっぱい読んだこと」と、あと、関西で宝塚歌劇が身近にあったことも影響してるかもしれません。世界の文学・歴史・音楽がぎっちり詰まっていて、第一部の芝居では平安時代、第二部のショーではブロードウェイやリオのカーニバルに飛んじゃうみたいな世界でしたから(笑)。 勝手ながらスポーツ万能でやんちゃなイメージがありましたが、森さんはいわゆる優等生でしたか! もともと「いい子ちゃん」で、子ども時代に子どもらしくできる子のことを「いいなぁ」と思って眺めていたような子でした。どういう作文を書くと、大人が喜ぶのかがわかっていたし、絵も自由奔放に描くよりも「上手だね!」と褒められるものを描いてしまう子でした。幼稚園の頃、『裸の王様』をお絵かきする時間があって、レンガ造りのお城に髭の王様をうまく描いたら、先生は私の絵と、大らかな丸い線で元気に描きなぐったようなA子ちゃんの絵と両方持ってクラスのみんなに見せて「どちらがいい絵でしょう?」と聞いて、みんなが「ゆうこちゃんの絵!」と言ったら「違います。A子ちゃんのほうがいい絵です」とおっしゃった。私は全然悲しくなくて、ああ、この先生はわかっているな~と感じたのを子ども心に記憶しています。今ならこういう教育は、大問題になりそうですけどね(笑)。 ビックリなエピソードです!その頃から、やはり絵が好きで大学は美術系へ進学なさった? 母方の祖母が日本画を描く人で、多少なりとも影響を受けて、私も絵だけは小さな頃から得意でした。何の迷いもなく「グラフィックデザイナーになる」と思っていたので美大を目指しましたが、実はグラフィックデザイナーがどんな仕事かの説明もできないくらい知らなかった(笑)。デザインをするには基本のデッサン力が必要だということで、美大予備校で人物画1000本ノックもやって死ぬほどデッサンを叩き込まれました。それは今になって本当によかったと思う。デッサンは、すべてのものづくりの基本。たとえアニメ好きやペンタブレットのようなIT機器で絵を描きたいという子でも、絶対に鉛筆で描くデッサンを学んでほしい。「ものを多角的に見ること」が身につくし、「鉛筆を削る」という行為そのものが大切なんです。でも受験を越えて目標を達成した大学入学後、「こんなはずではなかった…」と、初めての挫折を味わうことになりました。それまでは順調な人生だったのに、大学で何をどうすればよいものか、アイデンティティーがわからなくなってしまった。将来のイメージが描けずに焦ったのです。 |
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