ご著書「変える」も読ませていただきました。中学の途中で沖縄へ転校され、高校も島根の田舎の全寮制へ進学なさって。学校教育も素晴らしかったのでは? 学校が嫌だったから、自分の頭で考えて行動するようになりました。先生がしっかりしていたというより、その場所がよかった。カリスマ的な先生がいて、その人に影響を受けたわけでなく、どの先生にも言い返したし、基本的に生徒に考えを託してくれた。あと、親の存在はデカいです。中学でいじめがあって不登校になった時、父親とはやり合いましたし、母親にもほんとに酷いこと言って、まあ親めっちゃ嫌でしたね。 お父様のような怖い存在は大切ですね。どうやってそこを乗り越えました?今はもちろん応援してくださって仲の良い関係でいらっしゃいますけれど。 怖い存在っていうか、なんていうか、近いからこそ許せないんですよ。言ってくることの全てがいちいちムカつくというか。不登校になって、最初は両親とも僕を学校へ行かせようとしていたのですが、そのうち諦めましたが、このままではいけないという感じで。でも、その時手放してくれたことがよかったのかもしれません。僕が沖縄の学校へ転校を決めて家を出たとき、母は泣いていたし。その時はなんで泣いているのかな?とわからなかったのが、離れてみてわかるようになった。親もひとりの人間なんだ、と思うようになりました。 自立したからこそ距離をもって親を見つめることができたのですね。 父親は、中高時代に勉強もスポーツもできる優等生ぽかったし、でも息子は勉強もスポーツもできないし、いじめられている(笑)。父は牧師として、家も失い、家族もいないホームレスの方の支援をずっとしていた。なのに、自分の息子は「家族嫌だ」と言ってくるみたいな。家族に「マザー・テレサ」がいると困るものですよ。今も父は支援活動続けていて、3000人を超えるひとが自立して暮らしてます。NPO起ち上げて100人くらいメンバーもいる大所帯なので大変みたいです。 北九州で過ごした小学生時代は、どんな子でしたか?習い事はしていました? 自然が豊かな場所でしたから、魚や虫を捕って遊んでいました。習い事は、教会に大きなピアノがあってピアノ教室として開放して近所の子たちも習いに来ていました。僕も小学3年生から6年生まで続けましたが嫌でやめました。女の子と一緒にやっているのが恥ずかしくなったし。水泳、英会話、学習塾などいろいろやらせてもらいましたが、やってみてはすぐやめていました。ほとんど何かに役に立っている気はしませんが、鍵盤の音をきいてなんとなく何の音かは分かるかな、だからなんだって感じですけど。それと、中学で学校へ行かなくなっても、小学校で英会話をやっていたおかげで、蓄積があった分なんとかついていけました。 |
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