私はもともと政府へ不信感を抱いてますが、コロナ禍でさらに数々の信じがたい事実が露呈されました。こういう国と、どのように対峙すべきでしょうか? 今の風潮的に、自分と違う意見の人は攻撃対象であり、叩く対象。誹謗中傷のターゲットになる。異論への接し方がすごく大事だと思います。これもうちょっとこうしていこうよと改善点をあげたり、批判することもされることも慣れていない。意見と人格が一体化して、意見を否定されると人格を否定されたような感覚になって、議論がエモくなって、攻撃合戦になってしまう。あなたなんでそう思う?オレはこう思うけど?ふーんそういう考えもあるんだ。よっしゃ飯行こ~みたいな感じがいいと思うんですけどね。これからの時代は、目まぐるしく価値観が変わっていくので、今までの成功体験とか固定観念とか一旦捨てて、時代に合わせていくアップデートしていく作業が必要になってくる。年を重ねている人も、これから重ねる人も、自分は今どういう立ち位置にいて、時代は今どうなっているんだろう?というメタ認知能力が必要になってくるんだろうと思います。アップデートしろや!でなく、同じ目線にたってのアップデートを呼び掛けていかないとなりませんね。 その通りですね。先日、虐待問題についても言及した動画を拝見しました。改めてこうした社会問題は、どうフォローしていけばいいとお考えですか? 虐待した親を責める風潮がありますが、その親を生み出した背景を変えていくことのほうが虐待を減らすためにまず大事なことではないかと思います。皆が、虐待する親を叩くリソースを、皆で背景を考えるリソースにしたらもっと明確になる論点や、必要な受け皿が見えてきたり、今の問題点が浮き彫りになったりするのではないか。動画で主張したかったのはその点です。 自分が子を持つ親と、どう関わっているんだろう?どう温かく関わっていけるんだろう?と考えてみることです。育児放棄を許せないと言っても、上の階の子どもの足音にイラっとしたり、電車にベビーカー持ち込む親に厳しかったり、保育園開設を反対したり。そうやって親を孤立させずに、温かく見守っていこうというところからですね。親を責めると、虐待の自覚ある人は隠そうするので、虐待する親も苦しみを抱えているのかもしれないという社会的な目線になっていけば、自分から自発的にと言えるようになると思うんです。 ひとり親でも負い目を感じない社会を作っていきたいですね。では、子どもの習い事を考える親へ一言アドバイスをお願いします。 僕、サッカーをやりたいと言って小2頃、クラブに入りましたが2日くらいですぐやめたんです。自分でやるもやめるも、決めるならそれでいいと思う。長く続けて忍耐力を付けさせたいというのも理解はできますが、好きなことに出会っても、その中に嫌のこともある。僕の場合は、バスケは好きでも筋トレやダッシュとかはやりたくなかったです。好きなことで、必要な嫌なことなら僕は頑張れる。そこで忍耐力を付ければいい。やりたくないサッカーの、やりたくないダッシュはただの地獄。やりたくないってことはパッとやめさせて、好きなことを探す時間に使った方がいい。忍耐力は、好きなことの中の嫌なことで養う。僕はそうだったので、それがいいんじゃないかと思います。 最後に、これからの学校教育の在り方についてせやろがいおじさんの思いをお聞かせください。 学校だけが学びの場ではない。社会的に学歴があったほうが有利なのは間違いないけれど、一方で学歴が身に付けへんところで活躍している人もいっぱいいる。自分を殺して無理をしてまで学歴にしがみつくものではない。もしブラック校則に縛られて自由を奪われている状態の子どもがいたら、子どもにだけいろいろ求めるのは酷です。大人の側が手を差し伸べて、学校だけではない学びの選択肢を提示してあげてほしいです。 ---ありがとうございました! 2020年7月 リモートによる取材・文/マザール あべみちこ せやろがいおじさん 作品紹介
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