長谷川 初範 (はせがわ はつのり)さん 1955年、北海道生まれ。今村昌平監督創設の日本映画学校卒業後、1978年「飢餓海峡」で刑事役でデビューし脚光を浴びる。その後、多くのテレビドラマや映画に出演。現在公開中の「いのちの山河」では主演を務めている。 長谷川さんは北海道でお育ちになられて、剣道大会で優勝を何度もされている経歴を拝見しました。小さな頃からスポーツがお好きで? 幼稚園から小学2年生頃まで体が弱くて食も細かった。うちの家族は父親を筆頭に4歳下の弟もスポーツ万能で、僕だけなぜか落ちこぼれ(笑)、コンプレックスを持っていました。 でも8歳で剣道を始めて小学4年生から北海道代表として全国大会出場も果たし、体質も精神も変わりました。 体と心はつながっているんですね。16歳で交換留学生として米国オレゴン州に留学されました。今でこそ高校で留学は珍しくありませんが、当時はとても希少でしたよね。1ドル360円の時代ということで。英語もお好きで独学で勉強を? 僕は剣道を身につけていたから。日本の文化を伝道する第一人者という位置づけでした。他にもお茶やお花、柔道に長けている同世代が留学していました。ちょうどベトナム戦争の時期でホームステイ先の父親は第二次世界大戦で日本と戦ったことのある人で戦利品を家に飾っていた。「日本は原爆を落とされて当然だ。さもなければあの戦争は終わらなかったのだから」と言われても、悔しいことに僕は言い返せるだけの英語力がなかった。理論武装してアメリカの大学で勉強しようと、留学から戻って沖縄問題についての資料を漁ってずっと図書館通い。その代わり大学の受験勉強はしないと決めたので思う存分好きなことを学ぼうと(笑)。ところがアメリカの大学へ行きたかったけれど、父の家業が倒産。それで自分が学べる場は他にどんなところがあるのだろうか?と探すことに。 それが俳優を志すきっかけとなったのですね。 それで今村昌平監督が校長を務めていた横浜放送映画専門学校(現・日本映画大学)演劇科へ入学しました。それまで周りの教師に僕は肯定されたことがなくて、この出会いによって初めて大人に肯定されました。役者を志すようになりましたがハンパなく極貧生活。1回映画を観ると1食分ご飯を抜かないとならない。パンフレットも買うと翌朝のご飯も抜いた。命がけで映画を観ていました。でも食べなくても素晴らしい作品に触れて、魂が満足すると生きていけた。おかげで74キロあった体重が1年で59キロまで落ちました(笑)。もちろん食べるためにアルバイトもしたけれど主に肉体労働を短期でこなしてましたよ。役者ではなく、バイト中心で戻れなくなってしまうのが嫌だったからね。 我慢強いですよね。役者を目指す人はたくさんいらしたでしょうけれど、どんな思いで道を歩んでこられましたか? 僕は幼少期に剣道を10年間続けましたから、とりあえず何ごとも10年続けてみないとわからないと思っています。何ごとも積み重ねです。それと18歳でこの道を目指した時、周りの人に言われたことは「一流のものを見なさい」「愛をテーマにしなさい」ということ。映画は思いの強いエネルギー体です。20年、30年先も生き続ける。20代の頃は何を言われているか正直わからなかったけれど、とにかくスポンジみたいにして何でも聞いてみようと。植木だっていい肥料をあげないと芽が出てこない。芽が出ないのは、その時期でないから。僕は20代の頃シャワーのように浴びてきたものが、ようやく50歳過ぎて芽が出始めました。
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