早稲田大学大学院で講師をされている西條さんですが、研究テーマがとてもユニークですね。近刊の編著『よい教育とは何か』(北大路書房)でお話しされていることは、親も教員も知りたい内容です。「よい教育」を構想するために、何をどう考えるべきでしょう? これはやや難しいのですが、公教育の正当性をどのように吟味すればよいのかという問題で、そのための考え方がなかったのです。「よい教育」を考える際には、まず「自由の実質化」を考えなければなりません。自由に生きるためには最低限の能力は必要です。したがってこれは生きたいように生きる力を育てることといってもよいと思います。学校教育でも、自由に生きる能力を身につけていくことが必要になる所以です。 なるほど。まとめるとどうなりますでしょうか? この二つをまとめれば、人様が自由に生きるようとする意思を尊重した上で、自分も生きたいように生きれるような能力を育むという観点から、「よい教育」かどうか吟味していくことができる、ということですね。またそうした「原理」を視点として使うことで、「よい教育」から外れないよう自覚的に判断することが可能になります。 自由に生きるためには、自己肯定感がないと難しいですよね。これは子どもだけに限らず、親にも言えます。自己肯定感が欠けていると自分も子どもも大事にできないところがありませんでしょうか。 そうですね。ふつう子どもがテストで100点取ってくると、「まぁ、えらい。100点取ったのね」と褒めますし、それはそれで素晴らしいことなんですが、それは100点を取った行為(doing)に対する賛辞に過ぎないということを頭の片隅に置いておいたほうがよいと思います。本当は、100点取らなくても「生まれてくれてありがとう」と抱きしめる行為が、存在(being)を認めること、すなわち子ども達の自己肯定感を育てることになります。何もしなくても、何もできなくても愛されているんだと実感できるようにすることが、お互いが自由に生きることを承認しあうための基礎となる「自己肯定感」を育むことにつながっていくのです。 小さい頃は特にスキンシップが大事ですよね。西條さんはご自身「自由の相互承認」ができる環境で教育を受けてこられたのでは?どんな少年期、学生時代でしたか? 仙台で生まれ育ち、のんびりしていました。僕には1つ上の兄と、7歳と9歳離れた妹が2人います。幼稚園では友達がいなくて毎日カナブンを集めていた気がします。小学校になると妹が生まれたのですが、実家が自営業をしていたので「勉強しなくてもいいから妹の面倒をみて」と親には言われていました。二人とも可愛かったし、一緒に遊んだりするのが好きでしたね。小学生の時は妹たちの面倒をみていて、あまり遊べなかったときもありましたが、外で友達と遊ぶのが好きでしたね。小学校の頃はスイミングの選手コースに行っていて、仙台市で優勝したこともあります。 小学校の頃はかなりやんちゃだったと思うのですが、中学になると少し落ち着いてきたと思います。なんか英単語覚えられないなと思っていたら、小学校の頃にローマ字を完全にさぼっていたので、無意味なアルファベットの羅列として暗記していました。さすがに途中で親が気づいてローマ字練習させられましたけども(笑)。学級委員とかもさせられるようになったのですが、まったく興味がなかったので、「残りの学期何もしないでいいならやります」とか先生と交渉してやってましたね(笑)。 部活は何をされていたのでしょうか? 中高とソフトテニスをやっていました。高校は仙台三校という伝統的に強いところだったので、部長になって仙台市で優勝したりしましたが、怪我に泣かされて挫折の方が多かったですね。勉強面は、入試ではトップ入学したのですが、入ってからまったく勉強しなかったので1年生の夏休み空けには300番台になっていて、しまいには0点とかとってました(笑)。結局、2年浪人して早稲田大学に入りました。二浪の時期は、やはりどこかで悶々としている辛い時期でしたね。 これまでに出会えて影響を与えてくださった先生はいらっしゃいますか? その時代ごとに何人かいました。高校時代に出会った藤倉先生はカウンセリングを学ばれていた方で敬虔なクリスチャンでした。宗教についてはご自身が信仰深くても決して他人に思想を押し付けるような方でなかった点も好きでした。大学院時代は根ヶ山光一先生に研究の「いろは」をたたき込んでいただけて高い基礎能力を育んでいただきました。その後の日本学術振興会の研究員時代は、池田清彦先生が師となり、学者としても、人間としても尊敬していますね。
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