全編を通じて沖縄の魅力が伝わってくる作品ですが、そういう沖縄でずっとお育ちになった宮平さんの小さな頃について少しお聞かせください。何をすることが好きな、どんな性格のお子さんでしたか?大人になったら何になる…みたいな夢がありましたか? 物心がつくのが遅くて…(笑)小さな頃の記憶があまりないんです。でも、小さな頃は、大きくなれば大人になれるものだと思っていました。今はそうじゃないことに気がついて、焦っています(笑)。自分で四コマ漫画や小説を書いてクラスメイトに読ませて、授業中にも漫画を描いていた記憶はあるので、真面目な生徒ではなかったですね(笑)。私自身はそんな記憶はないのですが、がーじゅー(石頭)だったようで先生にも屁理屈をこねて反抗したときもあったようで、よく母に苦情が寄せられたようです。それから、小学校の頃は背が高い方だったので男勝りだったような記憶があります。そういえば男子とケンカをした記憶もありますね。 素直で柔らかな雰囲気の、今の宮平さんとは真逆なイメージですね(笑)。子ども時代に何か習い事はされていましたか? 私は、集団行動が苦手で、公文なども…算数では年下の子に追い抜かれて笑われたりして、あまり面白くなくさぼったのがバレて、それ以来塾のようなものには通っていなかったです。中学の頃、英語の成績が極端に悪くなり、近くに住むご老人でアメリカで働いていたという方にマンツーマンで教えていただきました。そのとき入塾テストの答案を指して、「あなたの英語は、くしゃくしゃにしてポイですよ」と言われて、今だったら大爆笑なんですが、当時は悔しくて、夜も寝ずに英語の辞書で勉強したのを覚えています。それが、今思えばあの老先生の作戦だったのかもしれませんが、勉強してわかってくると、英語が好きになりました。 宮平さんはご自身のお子さんを、どのような方針で育てられたいですか? 私は両親が共働きだったこともあり、割と放任主義で育てられました。母は私がつきあう友達を色々口出ししないと決めていたようで、小学生ながら、札付きの不良からいじめられっ子まで、色んな子と交流があり、とても良かったと思っています。 いろいろな友達と交流できたのは、クリエーティブな仕事にプラスになっているはずですよね。では現在の仕事を確立するまで、どんな努力が必要でしたか? 仕事の確立は、まだまだ、です。私の場合は、初めて大学で短編映画を撮ったのがきっかけで、周囲の支えもあって「やめていない」ということだけです。逆に、続けていれば、何かがつながる。観ていてくれる人がいて、次に繋がる、全てに共通することかもしれませんが、自分があきらめたら終わり、ですね。努力というより、人の意見を真摯に受け止めることはクリエイティブなチームワークには必要不可欠だと思っています。しかし、ガージュー(石頭)の私にガニオン監督が口を酸っぱくしていう言葉が「クリエイション イズ コレクション」(創造は修正だ)です。最初のアイデアからどれだけ修正をかけるかに、作品の出来がかかっている、という意味ですが、映画製作においては脚本・撮影・編集にかけてその視点は本当に大事ですね。 ⇒ [3]を読む |
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