志賀 賢治 (しが けんじ)さん 広島県広島市出身。1952年生まれ。1978年名古屋大学法学部卒業。1978年広島市役所採用。社会局地域福祉課監査指導室長、企画総務局人事部研修センター所長、企画総務局情報システム課IT推進室長、企画総務局IT推進課長、企画総務局情報政策担当部長、広島市立大学事務局長、健康福祉局長、人事委員会事務局長などを歴任し、2013年広島市役所退職。2013年4月より現職。» 『広島平和記念資料館 WebSite』 はこちら 広島平和記念資料館長として今春就任され、被爆二世の館長さんは初めてとお聞きしました。今日は館長さんの幼少期の頃をひも解いて、これからの平和教育のお考えについてもお聞かせ頂ければと思います。戦後の広島はどんな時代でしたか? 私は原爆が落ちて7年後に広島で生まれました。祖母が被爆者で顔の下唇から上半身、両手にケロイドがあってお箸をもつこともおぼつかなかった。爆心地から1.5キロ圏内で原爆に遭ったそうです。祖母は黒いかすりを着ていたため熱線を吸収しやすかったのでしょう。白い着物は熱線をはじくので、白い腹巻をしている人はそこだけ火傷しなかったが、着物に黒い模様があった人は模様がそのまま火傷となった人もいた。ただ、それについて詳しく本人から聞くようなことはなかった。友達のほとんどに被爆した家族がいたんですが、広島に生まれた人は意外と家族から体験を聞いたことがないんです。 あまりにも酷い惨状で言葉にできなかったのかもしれませんね。 しかし、学校教育やニュースなど他からは原爆のことを耳にしました。8月になると広島は政治的な絡みもあって賑やかになるのが段々鬱陶しく感じてきて8月の外出を控えるようになりました。平和記念式典に参加するようになったのも仕事についてからです。8月6日の午前8時15分になると、昔は、市内の全ての事業所のサイレンが一斉に鳴ってみんな黙とうしました。当時は電車もバスも止まり、官庁も銀行も休みでした。一斉に休みになった理由はほとんどの人が法事だったからです。 そうした時代を経て、昭和30年代の幼少期はどのように過ごされていらしたのでしょう? 比較できないからわかりませんが、広島は皆食べてくのに精いっぱいだったように思います。子どもが何か習い事をするという状況ではなかった。ただ、僕らの小学生時代は学習塾のブームでしたし、私立の中高一貫校へ進学するために塾へ通ったことがあります。 原爆投下され今夏で68年目となります。広島を伝えていくための館長さんの使命とは? 今から10年ほど前、若い人とは感覚的に違うなぁと思うことがありました。若い市役所職員にも、8月6日のことをさほど意識に留めない人が出てきた。幾分かの違和感を覚え始めています。私はずっと市役所職員でしたが、大学の開学準備をしたり、インターネットを活用できるよう企画を考えたり…いわゆるお役所的ではない仕事をして参りました。平和記念資料館長は目指してきたポジションではありませんが、広島で生きてきた私にとって、この仕事は、広島に生まれ、広島で生きてきた自分と切り離せないものです。これまでの11人館長の多くは、被爆と何らかの関係がありました。しかし、私は、戦後生まれですから時代の変遷を感じながら、この役割を務めたいと思っています。 |
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